2009年 07月 11日
水車むら合宿 |
静岡県藤枝市の水車むらへ。
ここには1983年4月の水車むら開きの前から、大学の室田武ゼミの一環として建設作業の段階から関わり、その後もゼミ合宿で使わせていただいた思い出の場所。今回は子連れも含めて総勢10名の知人が集うことになった。
吊り橋を渡ると合宿所。安全なのは分かっているのだが、ものすごく揺れるので、つい怖々と渡る。でもお子様は遊園地のアトラクション気分で大喜び!
僕が室田ゼミに入るきっかけは当時のMUSIC MAGAZINE。Phewと栗本慎一郎の対談に出てきた室田武という学者が、たまたま自分の大学にいると知り「面白そうだな」と好奇心をそそられたという極めて軽いノリだった。とはいえ80年代前半にここで始まった営みは、エコロジー、反原発の流れの中で大きな役割を果たしており、卒業後にまるで別の場所で知り合った方の中にも、水車むらと関わりのある人がいたりする。
四半世紀ぶりに現地にバイクで向かっていると“東名高速全線開通40周年”という文字が目に入ってきた。なるほど、東名高速の開通もMUSIC MAGAZINEの創刊も、終戦から約四半世紀後、高度経済成長後半の1969年。水車むら開きはそれから14年後。当時の僕は単純に新しくておもしろい動きだと思っていたのだけれど、戦後に猛烈な勢いで変化が起き、それに対する反省も込めて新しい価値観を打ち出そうという動きだったのだ。時間が経ったことで、そういう流れが、よりリアルに感じられるような気がした。
(一方で世の中には、1946年の都市計画決定を原型として下北沢の街をまっぷたつにする補助54号線のような、状況の変化に対応していない動きもあるけれど……)
久しぶりとはいえ、何回も行った場所なので大丈夫だろうと高をくくっていたら、藤枝市内に入ってから完全に道を間違えてしまい、10キロ以上も山道を引き返すハメに。Yahoo!の地図はプリントアウトして持参していたのだが、ほとんど役に立たなかった( ̄ー ̄*)。藤枝市街地の観光案内所では、詳しい地図を配布していたようだ。都市生活者モードのまま、現地に行こうとした僕が甘かったと反省。
到着すると、すかさず水車むらの主、臼井太衛さんがビールをふるまってくれる。なんと臼井さんは四半世紀ぶりなのに、僕の名前も顔もしっかり覚えていてくれた!
臼井さんは今年で73歳……ということは学生時代に僕がお世話になった時は、ちょうど今の自分と同じ年代だったことに、気がついた。
そこに近隣の方が川で釣ったばかりの鮎を届けてくれ、鮎の塩焼きで、贅沢な宴の幕開きである。
料理隊長のKは、奥只見で丸太の皮を剥くところから自分の手で建てたログハウスに住むアウトドアの覇者。薪で大釜を焚けるというので、嬉々として腕をふるってくれた。特に子供達に受けたのは、彼らが川で手づかみで捕まえてきた沢ガニの天ぷらだった。こんな体験をさせることができる場所は、なかなかないんじゃないかな?
当然のごとく、この日はデスマッチで飲み続けるうちに夜は更けていった。
そして12日の朝。
朝食後はまず、水車むらの建設に尽力された故人のお墓参り。ご家族が住んでいるところからすぐそばにお墓があるというのは、自分の周りには無いことだけれど、生活感としては非常に自然な気がした。そこから水車むらに戻って、今度は石碑の除草作業。
みごとにキレイになりました!
でもまだ午前中、昼食までの時間を利用して、今度は臼井さんの案内で温泉へ。
ものすごい賑わいだった。
この施設は「ふるさと創生一億円事業」で建設されたという。無駄遣いの典型として揶揄されることも多い制作だったけれど、少なくともこの施設については有効活用といえますね、などと話しながら汗を流すうち、臼井さんは「2012年には水車むら30周年の一大イベントをやりましょう!」と言い出した。その時はギターも持ってこようかな?
昼食は水車むらの中にあるたろべえじゅ。
玄米と野菜を中心とするバイキング形式で、次々とおかずが出てきて、何回もおかわりしてしまいました。お店の建物も内装も食器もすごく凝っていて、店内は満員!!
学生時代の友人と臼井さんと濃密な時を過ごすことができて、非常に楽しかった。水車むらには今後も行く機会を作りたいものだ。
僕が室田ゼミに入るきっかけは当時のMUSIC MAGAZINE。Phewと栗本慎一郎の対談に出てきた室田武という学者が、たまたま自分の大学にいると知り「面白そうだな」と好奇心をそそられたという極めて軽いノリだった。とはいえ80年代前半にここで始まった営みは、エコロジー、反原発の流れの中で大きな役割を果たしており、卒業後にまるで別の場所で知り合った方の中にも、水車むらと関わりのある人がいたりする。
四半世紀ぶりに現地にバイクで向かっていると“東名高速全線開通40周年”という文字が目に入ってきた。なるほど、東名高速の開通もMUSIC MAGAZINEの創刊も、終戦から約四半世紀後、高度経済成長後半の1969年。水車むら開きはそれから14年後。当時の僕は単純に新しくておもしろい動きだと思っていたのだけれど、戦後に猛烈な勢いで変化が起き、それに対する反省も込めて新しい価値観を打ち出そうという動きだったのだ。時間が経ったことで、そういう流れが、よりリアルに感じられるような気がした。
(一方で世の中には、1946年の都市計画決定を原型として下北沢の街をまっぷたつにする補助54号線のような、状況の変化に対応していない動きもあるけれど……)
久しぶりとはいえ、何回も行った場所なので大丈夫だろうと高をくくっていたら、藤枝市内に入ってから完全に道を間違えてしまい、10キロ以上も山道を引き返すハメに。Yahoo!の地図はプリントアウトして持参していたのだが、ほとんど役に立たなかった( ̄ー ̄*)。藤枝市街地の観光案内所では、詳しい地図を配布していたようだ。都市生活者モードのまま、現地に行こうとした僕が甘かったと反省。
到着すると、すかさず水車むらの主、臼井太衛さんがビールをふるまってくれる。なんと臼井さんは四半世紀ぶりなのに、僕の名前も顔もしっかり覚えていてくれた!
臼井さんは今年で73歳……ということは学生時代に僕がお世話になった時は、ちょうど今の自分と同じ年代だったことに、気がついた。
そこに近隣の方が川で釣ったばかりの鮎を届けてくれ、鮎の塩焼きで、贅沢な宴の幕開きである。
料理隊長のKは、奥只見で丸太の皮を剥くところから自分の手で建てたログハウスに住むアウトドアの覇者。薪で大釜を焚けるというので、嬉々として腕をふるってくれた。特に子供達に受けたのは、彼らが川で手づかみで捕まえてきた沢ガニの天ぷらだった。こんな体験をさせることができる場所は、なかなかないんじゃないかな?
当然のごとく、この日はデスマッチで飲み続けるうちに夜は更けていった。
そして12日の朝。
朝食後はまず、水車むらの建設に尽力された故人のお墓参り。ご家族が住んでいるところからすぐそばにお墓があるというのは、自分の周りには無いことだけれど、生活感としては非常に自然な気がした。そこから水車むらに戻って、今度は石碑の除草作業。
でもまだ午前中、昼食までの時間を利用して、今度は臼井さんの案内で温泉へ。
ものすごい賑わいだった。
この施設は「ふるさと創生一億円事業」で建設されたという。無駄遣いの典型として揶揄されることも多い制作だったけれど、少なくともこの施設については有効活用といえますね、などと話しながら汗を流すうち、臼井さんは「2012年には水車むら30周年の一大イベントをやりましょう!」と言い出した。その時はギターも持ってこようかな?
昼食は水車むらの中にあるたろべえじゅ。
玄米と野菜を中心とするバイキング形式で、次々とおかずが出てきて、何回もおかわりしてしまいました。お店の建物も内装も食器もすごく凝っていて、店内は満員!!
学生時代の友人と臼井さんと濃密な時を過ごすことができて、非常に楽しかった。水車むらには今後も行く機会を作りたいものだ。
by shida-a
| 2009-07-11 19:46
| 雑記