2006年 10月 20日
ジャーナリストは客観報道の夢を見るか? |
事業認可と都市計画審議会のニュースが伝えられるに連れ、
これまで下北沢の状況を心配してくれていた人達の中には、
怒りだけでなく悲しみを表明する方もいる。
悔しさや怒りはあって当然だし、おおいに共感する。
だが僕は今の状況は決して悲観しなければならないものではないと思う。
こうした認識のギャップがどこから生じるかというと、情報量の違いだ。
今回の新聞やTVの報道でも、それぞれに差異がある。
「決定した」ことばかりが印象に残るものもある一方、
審議会の議事が異例の揺れ方をしたことが強い印象で残るものもある。
つまり同じ現象を伝えるのでも、観測者の視点により、今後の状況についての認識は大きく異なってくるのだ。
前にも書いたことがあるが、僕はデータを検証する際の客観性は大事だと思うが、取材者が神のような公平中立な視点を持ちうるというような幻想は一切持っていない。
昨日の記事もジャーナリストとして(みなさんご存知だと思うが、僕の名刺に書いてある肩書きはライターである)申し込んだ傍聴をもとに書いたもので、
事実は歪曲していないが、僕という観測者からのバイアスがかかっていることは明らか。取材の際に報道関係者であることを示すプレートを着用した服にも、あえて「下北沢を救おう!」という缶バッジを付けたままにしておいた。
玉置浩二に取材させてもらった時だって、なりゆきとはいえ、周囲のスタッフに警戒されるリスクを犯しながらも、彼の目の前でずうずうしく弾き語りを披露してしまったところから、劇的な展開の取材となったのだ。もともと客観性を自称するような取材なんてできないタチの人間なのである。もちろんその感想だって「客観性が無くてコアなファンでないと読みにくい」とか「あらゆる音楽ファンに読んで欲しい」とか、個々の読者によっていろいろあるだろう。
だから以下の言葉はそんな偏りのある人間の言葉として受け止めて欲しい。
下北沢を巡るやり取りは、ここからがいよいよ本番であり、
決して悲観する状況ではありません。
明日配布する“Save the 下北沢”のかわら版は、
そうしたことが分かりやすいものにするつもりです。
これまで下北沢の状況を心配してくれていた人達の中には、
怒りだけでなく悲しみを表明する方もいる。
悔しさや怒りはあって当然だし、おおいに共感する。
だが僕は今の状況は決して悲観しなければならないものではないと思う。
こうした認識のギャップがどこから生じるかというと、情報量の違いだ。
今回の新聞やTVの報道でも、それぞれに差異がある。
「決定した」ことばかりが印象に残るものもある一方、
審議会の議事が異例の揺れ方をしたことが強い印象で残るものもある。
つまり同じ現象を伝えるのでも、観測者の視点により、今後の状況についての認識は大きく異なってくるのだ。
前にも書いたことがあるが、僕はデータを検証する際の客観性は大事だと思うが、取材者が神のような公平中立な視点を持ちうるというような幻想は一切持っていない。
昨日の記事もジャーナリストとして(みなさんご存知だと思うが、僕の名刺に書いてある肩書きはライターである)申し込んだ傍聴をもとに書いたもので、
事実は歪曲していないが、僕という観測者からのバイアスがかかっていることは明らか。取材の際に報道関係者であることを示すプレートを着用した服にも、あえて「下北沢を救おう!」という缶バッジを付けたままにしておいた。
玉置浩二に取材させてもらった時だって、なりゆきとはいえ、周囲のスタッフに警戒されるリスクを犯しながらも、彼の目の前でずうずうしく弾き語りを披露してしまったところから、劇的な展開の取材となったのだ。もともと客観性を自称するような取材なんてできないタチの人間なのである。もちろんその感想だって「客観性が無くてコアなファンでないと読みにくい」とか「あらゆる音楽ファンに読んで欲しい」とか、個々の読者によっていろいろあるだろう。
だから以下の言葉はそんな偏りのある人間の言葉として受け止めて欲しい。
下北沢を巡るやり取りは、ここからがいよいよ本番であり、
決して悲観する状況ではありません。
明日配布する“Save the 下北沢”のかわら版は、
そうしたことが分かりやすいものにするつもりです。
by shida-a
| 2006-10-20 15:29